Dec 26, 1999

愛知・岐阜・三重

「このキャンペーンは、愛知・三重・岐阜県を除く、全国のマク◯◯◯ドで実施しています。」

何かひっかかる。

日本の中心たるこの三県のマ◯ド◯ル◯では別の特殊なキャンペーンが実施されているに違いない?

いや、問題はそんなことではない。どう考えても「愛知・岐阜・三重」の順じゃないか。子供の頃からずっと東海三県は「愛知・岐阜・三重」の順番で列挙することになっていたはずだ。五十音順でもアルファベット順でも「愛知・岐阜・三重」。いつ岐阜は三重に「も」負けたのだろう。

確かに伊勢神宮とか伊勢海老とか蛤とかナガシマスパーランドとか松阪牛とか赤福とかミキモトの真珠とか鈴鹿サーキットとかパルケエスパーニャとか、いろいろとコンテンツ面では負けとると思うよ。けど岐阜は信長さんだでね。

あと東海三県に静岡県を入れるのも止めれ。

Fight Club

遅ればせながら、Fight Clubを見てきた。人間の持つ暴力性の萌芽・発展・暴走・崩壊の流れを描いた現代の寓話として素晴らしい出来だ、と何のためらいもなく断言できる。ここでは細かいプロットに言及することはしない。映写機の切り替えサインが「『あるメタファー』の切り替え」を表すために演出上多用されている。しかもこのサインの機能自体は劇中でもちゃんと説明されるという自己言及ぶりがDavid Fincherらしくて面白い。この演出とメタファーの連関に気が付かない観客も相当いるに違いない。ちなみに「暴力性の萌芽」を表すメタファーには、時折1フレームだけ「とある人影」を挿入するという方法を採っている(この方法は「萌芽期」、すなわち、序盤にしか使われない)。これもまた劇中で話題にしている。

まだ観ていない人が多そうなので詳しい話は別に機会にするつもり。

2000.06.20追記:

そろそろレンタルビデオでFight Clubが見られるようになったそうなので、書かずにおいた感想を書くことにしよう。

Brad Pittが演じる暴力の権化的キャラクターが石鹸作りをしているのは、石鹸がセックスに関係あるからだ。暴力の優位とセックスの優位は関連があると、一般には、というかアメリカの神話的には、認識されていて、実際にセックスの優位を示すシーンもある。

ところで彼がなぜかフィルムの編集をするための暗室を持っているのは一貫性を欠いた行動なのでかなり気になる。しかも一シーンしかない。要するに、このシーンは以前述べたFincherのやりたかった自己言及を達成するためだけに用意されていて、しかも公開時にカットされなかったのであろう。

そして、ついつい忘れてしまいそうになるくらい影の薄いHelena Bonham Carter。彼女は最終的に救いになる女性だが、いやだからこそと言うべきか、彼女はEdward Norton演じる主人公と同じ種類の人間である。つまり日々に退屈している。主人公との違いは物質的に恵まれているかいないかの違いだけで、出会い方が違っていれば、主人公たちは本当はこんな壮大な回り道をせずに済んだはずだ。私には、貧富と退屈な生活を送るかどうかの関連を否定するために導入されたプロットに思える。異論があっても不思議はないが。

金がなくて退屈するのはしかたがないとして、金があってもcKとか北欧家具(とかSony、とかAudi)みたいなそこそこ値が張って当り障りがない「だけ」のプロダクトやサービスを、「デザインがよいかも」(バカ!)とか「雑誌に紹介されている」みたいな本当は所在のない理由で選択し収集してしまえば、「一回分の」リストにそれらのプロダクトやサービスを加えること、つまりは「退屈」を導く、と。

ところで、Alien 3やSevenも撮ってるFincherが私の想像以上に薄っぺらくキリスト教的な人だったのだとすると、この映画で言いたかったのは単に「暴力も怠惰も罪、愛こそ正義」ってことなのかも。あいたたたた。

Dec 17, 1999

SC5

「今日から私のことは『スペース助手』と呼ぶモロ~」というわけで、「スペースチャンネル5」を買ってきた張本人は、私、スペース小川。やっぱりセガは素敵、何を考えているのかさっぱり分からないどころか、よく分かりすぎるあたりが。60年代のSFバカ映画(バカSF映画ではない)の「バーバレラ」が男の身勝手な妄想そのものであったように、その手の映画を題材に選んだこのゲームも、作り手とプレイヤー(そしてその代弁者たるゲーム中の「ディレクター」、要するにほとんど男性だ)のバカバカしい妄想を実現した、言ってみれば実に底の浅い健全なゲームだ。「バーバレラ」は必ずワイド版を見ること。

Dec 10, 1999

エル・ペスカドール@自由が丘

自由が丘でそこそこ評判のいいエル・ペスカドールというスペイン料理屋に行った。しかし、空腹でなかったために、なぜかおつまみだけを注文する変な客になってしまった。メインもパエリヤも口にしていないので評価は慎みたいところなのだが、全般に塩が少々強めにもかかわらず美味しかった。この店は女子率が高い。それもすこぶる高いのであなたが男子である場合、人員構成の如何に拘らず多少の覚悟が必要だ。

その後、そのすぐそばの喫茶店に入ったら高橋伸さんがいた。以前、晴海の輸入車ショーを見に行った時も見かけた。出先で知り合いに「まったく」出食わすことのない私が二度も目撃しているんだから、行動範囲が意外に近いのかもしれない。

Dec 9, 1999

SWAN vs. アラベスク

アラベスク第一部上巻、ようやく自宅の混沌の海からの救出に成功したので、ここんとこ読んでいたSWANの感想をそろそろ…。

実のところ、有吉京子の「SWAN-白鳥-」は連載雑誌(週マ)を一時期読んでいたにも拘らず、あまりの絵の濃さ加減にそのページをほとんど飛ばしていた。そんなわけでSWANはほぼ初読。結論から言って、素晴らしい。何が素晴らしいって、21巻にも及ぶ長編をバレエだけをねたに、しかも、ずーっと一人の少女の成長物語として描き続けたことである。

SWANは、強力なライバルの出現、厳しい練習の末の勝利、そして次のステップへというルーチンを繰り返すため、バレエのスポ根まんがと呼ばれる。スポ根はエスカレートする宿命を負っているが、SWANの場合には「バレエまんが家」有吉京子がその都度技術的裏付けを提示することで、スポ根まんがにありがちな過剰なエスカレート感を打ち消しており、通して読んでも飽きがこない優れた物語になっている。

一方、残念ながら私はSWANの登場人物のほとんどすべてに魅力を感じることができなかった。これは心理描写が類系的に過ぎた、あるいは好意的な言い方をすれば、ダンサー中心に過ぎたということに尽きる。

80年代の少女まんがに慣れすぎた私は、しばしば登場人物の心理行動だけをはたから見下ろすような読み方をするし、同じような心理描写が繰り返されることに耐えられないのである。

さて、もう一方の「アラベスク」であるが、第一部は基本的な展開がSWANと共通である上、単に2巻分と14巻分という量的な差異を考慮に入れたとしても圧倒的に堀り下げが不足していて物語上の深みもない。が、第二部になると状況は一変する。基本的なスタンスは踏襲しつつも、社会制度や境遇や狂気を描くことが中心になっているのだ。特に最終盤になって登場する極めて難解な心理行動を示す女性ピアニストが非常に面白い。このような心理行動ベースの物語がこの後の山岸涼子の基調となっていく。

Dec 2, 1999

IE5の日本語フォントの謎

主に大久くん向け情報。IE5の謎が一つ解けた。

つまり、「このページのように、スタイルシートを使ってfont-familyを設定する際に"Verdana,Georgia,Times,serif"のように日本語フォントを指定しないでおくことができる。そうすると英数字の部分はfont-familyで指定したフォントになるのは当然として、日本語の部分のフォントはどのように選択されるのか。」という謎である。

当初より使われる日本語フォントはかなりneatな方法でシステムが勝手に決めると思い込んでいたのだが、それは思い違いで、実は単にInternet ExplorerのTools > Internet Options > General > Fonts...のJapanese Language Scriptへのフォントバインディングによって決定されるようだ。

ということは、である。どこかの誰かがこのバインディングを「HG丸ゴシックM-PRO」に設定していれば、それに従って表示されるわけである。不本意だが、しかたないのか…。

また、Windows 2000 Professionalだとここに通常の日本語フォント以外にLucida Sans Unicode、Microsoft Sans Serif、Tahomaの3つも選択できるようになっている。これらのフォントを選択すると、英数字は指定したものが選択され、日本語文字はMS Gothic UIのフォントで表示される。

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